国破れ
防空壕に
茄子の花
8月が来るたびに、亡き父のこの一句が思い出されます。
今年で73回目の終戦記念日を迎えます。
私たちの社会はこの73年の間にどう変わり、どこへ向かおうとしているのでしょうか。
そこに大きな影響を与えていくのが、マスコミ報道であり、多くの言論人たちです。
今回は、『新潮45』2018年8月号、杉田水脈議員の
『「LGBT」支援の度が過ぎる』を取り上げてみたいと思います。
杉田議員はこの論文で、マスコミ報道、一部の右派の言論人、左派の活動家や言論人、
そしてネット上での書き込みなどで、袋叩きにあっています。
又、脅迫も受けたそうです。
そこで、それの何が問題なのか、私なりに調べてみようと思いました。
全文を載せますが、かなり長い文章なので、要点箇所をマーキングしましたので、
そこだけ読んでいただいても内容は理解できると思います。
本文
この1年間で「LGBT」(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が260件、読売新聞が159件、毎日新聞が300件、産経新聞が73件ありました(7月8日現在)。キーワード検索ですから、その全てがLGBTの詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるではないでしょうか。
朝日新聞や毎日新聞といったリベラルなメディアは「LGBT」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをません。発行部数から言ったら、朝日新聞の影響の大きさは否めないでしょう。
最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。
しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。
どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。
例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。
彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
LGBとTを一緒にするな
ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすることが自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。
一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
朝日新聞の記事で「高校生、1割が性的少数者」という記事がありました(3月17日付、大阪朝刊)。三重県の男女共同参画センターが高校生1万人を調査したところ、LGBTは281人で、自分は男女いずれでもないと感じているXジェンダーが508人。Q(クエスチョニング=性的指向の定まっていない人)が214人いて、合わせて1003人の性的少数者がいたというものです。それこそ世の中やメディアがLGBTと騒ぐから、「男か女かわかりません」という高校生が出てくる。調査の対象は思春期の不安定な時期ですから、社会の枠組みへの抵抗もあるでしょう。
最近の報道でよく目にするのは、学校の制服問題です。例えば、「多様性、選べる制服」(3月25日づけ、大阪朝刊)。多様な性に対応するために、LGBT向けに自由に制服が選択できるというものです。女子向けのスラックスを採用している学校もあるようです。こうした試みも「自分が認識した性に合った制服を着るのはいいこと」として報道されています。では、トイレはどうなるのでしょうか。自分が認識した性に合ったトイレを使用することがいいことになるのでしょうか。
実際にオバマ政権下では2016年に、「公立学校においてトランスジェンダーの子供や児童が“心の性”に応じてトイレや更衣室を使えるようにする」という通達を出しました。先ほども触れたように、トランスジェンダーは障害ですが、保守的なアメリカでは大混乱になりました。
トランプ政権になって、この通達は撤回されています。しかし、保守派とリベラル派の間で激しい論争が続いているようです。Tに適用されたら、LやGにも適用される可能性だってあります。自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱です。
最近はLGBTに加えて、Qとか、I(インターセクシャル=性の未分化の人や両性具有の人)とか、P(パンセクシャル=全性愛者、性別の認識なしに人を愛する人)とか、もうわけが分かりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。
オーストラリアやニュージーランド、ドイツ、デンマークなどでは、パスポートの性別欄を男性でも女性でもない「X」とすることができます。LGBT先進国のタイでは18種類の性別があると言いますし、SNSのフェイスブック・アメリカ版では58種類の性別が用意されています。もう冗談のようなことが本当に起きているのです。
多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります。
「LGBT」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません。朝日新聞が「LGBT」を報道する意味があるのでしょうか。むしろ冷静に批判してしかるべきではないかと思います。
「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。
『新潮45』2018年8月号、杉田水脈議員の『「LGBT」支援の度が過ぎる』
私の感想は、まったく問題のない文章だと思います。
どこが問題なのでしょうか?
問題とされている箇所は、
LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。
の部分です。特に「生産性」という言葉に非難が集中しています。
おそらく、「生産性」の文字を(せいさんせい)と読んでいるからだと思います。
この文章では、(しょうさんせい)と読むのが正しいのではないでしょうか。
「生産」は元々、(しょうさん)と読み、「出産」と同じ意味です。
それを、(せいさん)とも読むようになったのは、19世紀の産業革命以降です。
それまでは、そのような概念自体がありませんでした。
「生産性」(しょうさんせい)は、出産との関連性と解せるのではないでしょうか。
They never produce a baby. の英文を訳すと、”彼らは赤ちゃんを決して生まない。”
それを、“彼らは決して赤ちゃんを生産(せいさん)しない。” と訳すでしょうか。
多分、笑われます。
英語も、Produceは、give birth の意味があります。
問題なのは、自分の考えと違う考えを持つ人を絶対に許さないという人たちです。
多様性を掲げながら、実は、民主主義を理解していない人たちです。
そのような人たちが、世論を巻き込み、正論を封殺しようとすることです。
私たちは自分の頭で考え、決してそのような人たちに利用されないようにしましょう。
妻
「だれや! こんなとこに、靴下脱ぎ捨ててるのは!!」
私
「知らんがな、俺ちゃうで」
妻
「あんたしか、居てへんやろ・・・!」
「もう~、信じられへんわ」
私
「こない暑いと、靴下脱いだのも忘れてまうわ~」
「嗅いでみー」
妻
「いややわ臭い、あんた、あほか」
「そういえば、来月、総裁選やけど安倍さんに決まりやな」
「そやけど、モリカケいつまでやるんやろ? あんたどう思う?」
私
「決まってるがな、『モリトモ3年 カケ8年』 言うやろ」
それでは、インド映画「クリッシュ」を紹介します。
クリッシュ
原題 : KRRISH 3
製作 : 2013年
製作国 : インド(ヒンディー語)
監督:ラーケーシュ・ローシャン/
脚本:ラーケーシュ・ローシャン/ 、 ロビン・バット/ 、 ハニー・イラニ/ 、 イルファン・カマル/原作:ラーケーシュ・ローシャン
出演:リティク・ローシャン(クリッシュ、クリシュナ)(父ロヒート)/ブリヤンカー・チョーブラー(妻ブリヤー)/カングナー・ラーナーウト(カメレオン女カヤ)/ヴィヴェーク・オベロイ(悪魔のような天才科学者カール)
(あらすじ)
冒頭、父ローヒトの過去、そして息子クリシュナの誕生についてナレーションが流れる。
舞台はインド、ムンバイ。
クリシュナは妻プリヤー、そして父ローヒトと共に幸せに暮らしていました。
妻プリヤーはジャーナリスト、父ローヒトは政府の研究所に勤務、
だけど、クリシュナは事件の度にスーパーヒーロークリッシュに変身し姿を消すので、
勤め先はいつもクビになり、職を転々としていました。
ある日、父ローヒトは太陽エネルギーから生命の源を発生させる装置を発明しました。
クリシュナとブリヤーの前で実験するのですが、エネルギーのコントロールが出来ずに
失敗に終わりました。
そこで頭脳の持ったフィルターの必要性を知るのです。
場面が変わり、下半身が麻痺し動かせるのはたった二本の指だけ、
だが念力で何でも動かせる天才科学者カールのアジト。
そこでは、人間と動物が合体したミュータントが造られていたのです。
長い舌を持った男や、誰にでも姿を変えられる女など。
カールがミュータントを造る本当の理由は、自分の体の秘密を知り、
五体満足の体に戻す。そして人類の征服だったのです。
製薬会社を持っているカールは、彼の染色体で造った人口ウイルスを南アフリカで
撒き散らしパニックに陥れました。
同時に造ったワクチンで大儲けをする為だったのです。
今度は、その恐ろしいウィルスがインドに持ち込まれた。
ムンバイの街に不気味な人間が出没し始めます。
ローヒトは南アフリカ疫病研究所からワクチンの開発を依頼されます。
ローヒトは、送られてきたワクチンの分析で恐ろしい事実を知ることとなります。
そのワクチンが人工的に造られた物、そしてその染色体が、自分やクリシュナと
同じものだということを・・・。
誰にでも変身できるカメレオン女カヤはプリヤーを拉致しカールの元に送り、
自分がプリヤーになりすまします。
さらに、シンガポールへの調査で、真実を知ったローヒトもカールに捕らえられて
しまいました・・・。
本作は、続編3作目です。
続編なので、冒頭で主人公クリシュナと父ローヒトの出生と過去が語られますが、
本作だけ観ても全然問題ありません。最高に面白いです。
ボリウッドのSF映画といえば、シャンカール監督、ラジニカーント主演の、
2010年「ロボット」が強烈な印象で残っていますが、
本作はまったくそれに引けを取っていません。
ストーリーが、何処と無く「未知との遭遇」「スーパーマン」「X-MEN」などと
オーバーラップしますが、内容的には、正真正銘のオリジナル作品です。
特に、FSX、VFXの最先端技術を駆使した迫力あるシーンは圧巻です。
惚れ惚れする男前リティク・ローシャン、愛らしいブリヤンカー・チョーブラーも
魅力的ですが、悪魔の天才科学者役ヴィヴェーク・オベロイと、
カメレオン女カヤ役カングナー・ラーナーウトの存在感ある演技は、必見です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回は、「スラムドッグ$リオネア」を、紹介します。
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