2017年8月8日火曜日

観る年代で映画が変わる Part 3 (続・夕陽のガンマン 英題:The Good, the Bad and the Ugly)

1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、アメリカ軍によりナガサキに、
人類史上実戦で使用される最後の原爆が投下された。
コードネームを「ファットマン(Fat Man)」、制式名称はマーク3(Mk.3)である。
ナガサキはヒロシマに投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」と異なり、
プルトニウム239を使用する原子爆弾で、その威力はヒロシマの1.5倍の威力がある。
当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡し、建物は約36%が全焼または全半壊した。

極東国際軍事裁判(東京裁判)において、ラダ・ビノード・パール判事は、
「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、
ベン・ブルース・ブレイクニー弁護人は1946年5月14日の弁護側反証段階の冒頭で、
アメリカの原子爆弾投下問題をとりあげ、「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名(ポール・ティベッツ)を挙げることができる。投下を計画した参謀長(カール・スパーツ)の名も承知している。その国の元首の名前も承知している。彼らは、殺人罪を意識していたか?してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科でいかなる証拠で戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる。この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。その者達が裁いているのだ。彼らも殺人者ではないか」と発言した。なおこの発言が始まると、チャーターで定められている筈の同時通訳が停止し、日本語の速記録にもこの部分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった。
ブレイクニー弁護人は、1947年3月3日にも、原子爆弾は明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止する兵器だと指摘した。

救護を目的としない被爆者の詳細な健康被害調査は原爆投下直後から日本側により開始された。この日本側調査報告書は戦後直ちに米国側に全て英訳されて渡された。これは米国の提出命令によるものではなく、自主的なものであり、戦後も日本側は米国の調査に積極的に協力していたことが、米国公文書公開によって明らかになっている。

新聞・雑誌などにおいても被爆者は「放射能をうつす存在」あるいは重い火傷の跡から「奇異の対象」などとして扱われることがあり、被爆者に対する偏見・差別は多くあった。このため少なからず被爆者は自身が被爆した事実を隠して暮らすようになっていった。今日、日本放送協会は、これを戦後のGHQによる言論統制の影響、すなわち正しく原爆に関する報道がなされなかったために、当時、放射能・放射線の知識が一般的でなかったことと相まって、誤った認識が日本国民の間に蔓延したためであったと分析・公表している。

東京地方裁判所は、1963年12月7日、被爆者は損害賠償請求権を持たないとして、日本へのアメリカ軍による原子爆弾投下は国際法に違反したものであり、また同時に大日本帝国の戦争責任を認め、引き継ぐ日本国が十分な救済策を執るべきは立法府及び内閣の責務であるとする判決を下し、確定した。以降、今日に至るまで、日本国内の被爆者関連の施策あるいは裁判において、この基本的な考え方が準用され続けている。

あれから72年の歳月が経ち、私たちは何を学び、どう変わったのでしょうか。
残念ながら、今の社会は、お昼のワイドショーで世論が作られ
政治ですら変えられかねない状況なのでは・・・。

突然 妻の声が !
「あんた!  私のメロンパン食べたやろ !!

確かに食べたのは私だ
「・・・ごめん

妻 「信じられへんわ!!」
 
「容易に信じられるんちゃう」と心でつぶやく私。

それでは、観る年代で映画が変わる Part 3 [続夕陽のガンマン」を、
紹介しましょう。

続・夕陽のガンマン/地獄の決斗


原題:Il Buono, il Brutto, il Cattivo、英題:The Good, the Bad and the Ugly
製作年 : 1967年
製作国 : イタリア

監督:セルジオ・レオーネ/脚本:ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ/フリオ・スカルペッリ/セルジオ・レオーネ/撮影:トニーノ・デリ・コリ/音楽:エンニオ・モリコーネ

出演:クリント・イーストウッド(ブロンディー)/リー・ヴァン・クリーフ(エンジェル・アイ)/イーライ・ウォラック(トゥーコ)/チェロ・アロンゾ/マリオ・ブレガ/ルイジ・ピスティッリ

(あらすじ)
舞台は南北戦争末期の西部。
ブロンディー(C・イーストウッド)とトゥーコ(E・ウォラック)は、コンビで賞金を稼でいた。
その手口は、まずトゥーコが人を殺し、賞金つきのお尋ね者となる。
そのトゥーコをブロンディーが捕らえて賞金を受け取る。
トゥーコが、あわや縛り首という寸前にブロンディーが救い出す、という寸法だ。
だが、この商売には限界がある。ブロンディーは一方的にトゥーコと手を切った。
それに恨みを持ったトゥーコは、ブロンディーを罠にハメ、砂漠で痛めつける。
そこへ、南軍の兵士の死体をのせた馬車が疾走して来た。
その中にかろうじてまだ息のある兵士がいてトゥーコに水を求めた。
そして、その兵士は、墓地に隠した二十万ドルのありかを知っているというのである。
トゥーコは、墓地の名前を聞くや急いで水を取って戻ると、その兵士は既に死んでいた。
そしてその傍らにブロンディーがいた。彼はその墓の名を聞いていた。
墓地の名をトゥーコが、墓石の名をブロンディーが知っている。
結局二人は手を組まざるを得なくなった。
そこで二人は南軍になりすまし、もぐり込んだ救護所は、なんと、北軍だった。
捕虜となり収容所にぶち込まれてしまう二人だったが・・・。
だがその収容所には、隠された二十万ドルを探し続けていた男がいた。
将校エンジェル・アイ(リー・ヴァン・クリーフ)だ。彼は、二人にさんざん拷問を加える。
だが、ブロンディーの口は堅かった。
そこでエンジェル・アイは二人と手を組むことにした。
三人は、それぞれに相手をだしぬこうと、虎視眈々とチャンスを伺うのだが・・・。

熱狂的なファンは映画界の内にも外にも多く存在し、その影響力の大きさから本作品はカルト映画の傑作として評価されている
『夕陽のガンマン』と『続・夕陽のガンマン』に明確な話のつながりはない。日本で劇場公開されたときは、『続・夕陽のガンマン/地獄の決斗』と副題付きのタイトルだったが、ビデオが発売された時にこの副題は外された。1967年公開のジュリオ・ペトローニ監督作品『新・夕陽のガンマン/復讐の旅』(英題:Death Rides a Horse)とも関係はない。

この映画はアメリカでヒットし、セルジオ・レオーネという監督の評価を決定付けた記念碑的な作品である。劇中で戦争映画やヒューマンドラマのようなシーンも尺を大きく取られているゆえか、熱心なマカロニ・ウェスタンのファンからは批判的に捉えられることも多く、「マカロニ・ウェスタン(というジャンル内での)最高傑作」とは言いがたい部分もある。クエンティン・タランティーノはこの作品を今まで見た中で最高の映画の一つだと発言しており、ジョージ・ルーカスはトゥーコが墓場を走り回るシーンを何度も見て映画の編集のやり方を学んだという。本作は日中あるいは夜が舞台となっており、夕日は一切出てこない。

最後までお読みいただきありがとうございました。
次回は、黒澤明監督「用心棒」の紹介をいたします。

又、お会いしましょう

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